takeさんのnikki ~"K2”さん日記~

ダイバーシティを追求 ネットと紙媒体に舵を切る 14が好き 東京は嫌いだが江戸は好き(*‘ω‘ *)

コミュニケーション能力と想像力と創造力は同じところにある |人がモノに命を吹き込んでいるだけ、モノ自体に心はない

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コミュニケーション能力と想像力と創造力は同じところにある

心がなければ文化などない。育むことも出来ない

 早起きをし、コンビニで朝食を購入してくるのは、最近の日課になっている。

 料理を作りたい気もするが、環境が整っていない。言い訳をさせてもらえるならそうなる。

 ライフスタイルにより、コンビニやファストフード、外食など、使い分けていくのも良いのだと考えている。決めつけて不自由な思いをするくらいなら、使い分けていくほうがいい。心ありきで考えるとそうなる。

 心がなければ、文化などない。育むことも出来ない。

 

“モノ”は2番手。モノがモノを作るのではない

 心を持った人がモノに命を吹き込む。

 文化としていく。

 モノはモノに心を見ることはできないから、モノがモノに命を吹き込むことはできない。モノが心や文化を作ることはできない。なので、しっかりした文化を持った人が大事なのだ。

 “ヒトモノコト”すべてに心をみる事ができるからこそ、想像することができる。無い所なにかを見ることができるから、創造することもできる。

 姿かたちではないところ、もしくは何もないところに、なにかを見ることが出来るからこそ。なにもない所に、心を見る事ができるからこそ、創造することができる。

 苦しみの中にいるものや、言葉を発することの難しいものの声をくみ取れないものは、おしなべてイメージする力が低い。言葉を連ねる能力も低い。

 コミュニケーション能力と想像力と創造力は同じところにある

 

イメージする力が無いからコミュニケーション能力も

 なにか問題を抱え、若くして身体に不都合があるものと、年老いて身体をうまく動かせないものは等しく同じ。また、幼く表現が拙いものと、衰えて、頭の回転が遅くなり表現がおぼつかなくなる老人も等しく同じ。

 “幼いもの、身体に問題を抱えてるもの”に寄り添う、寛容な社会とは、

 “年老いて身体がうまく動かせないもの、衰えて頭の回転が遅くなり、表現がおぼつかない老人”にも寛容でやさしい社会となる。

 つまり、どちらか一方にでも、悪意を向けようとするものは、どちらにも等しく向ける可能性があると考えられるし、たとえば、人の言葉を発することができない、犬や猫、もしくは他のさまざまな動物に悪意を向けたり、虐待を加えることとは、幼いものや老人に向ける悪意や虐待とそう変わらない。

 苦しみの中にいるものに悪意を向けることとは、これらのこととそう変わらない。と、朝からそんなことを考えていました(^_-)-☆