takeさんのnikki ~"K2”さん日記~

通信紙媒体ナナイロが好き 2019年"AI元年” "AI”とはQUEENすべてのことを示す

モノの機能美についてすこし考えてみた... 古く機能しないものをどう見るのか

f:id:ktake0606:20190219152225j:plain

戸越公園(とごしこうえん)は、東京都品川区豊町にある品川区立の公園である。

当地一帯は江戸時代初期の寛文年間に熊本藩主・細川家の下屋敷があったところで、後に細川家の戸越屋敷として屋敷や回遊式庭園などが整備された。その後所有者は、松江藩松平不昧公家や出羽上山藩松平氏、久松松平氏などを経て、明治維新後は久松伯爵、吉井幸蔵伯爵、彫刻家の堀田瑞詳などの所有を経て1890年に三井家に移った。

1932年には三井家から当時の荏原町(後の品川区)に庭園部分が寄付され、1935年3月24日に東京市立戸越公園として開園した。1950年には管轄が東京都から品川区に移譲された。

江戸時代の回遊式庭園の雰囲気が良好に保たれている。

戸越公園 - Wikipedia

古く機能しないものをどう見るのか....

モノを機能としてみると、機能するから美しいという事に

 モノを機能としてみると、機能してこそとなるし、機能するからこそ美しいともなる。

 つまり、機能美。

 もちろん、機能的でこそ美しいとなる。ただどうか。機能しないと美しくない、“モノ”視点ではそうなってしまう。古くなり、機能的でないと、美しくないとなってしまう。

 歴史もあり、伝統的で文化的なものも、機能しないと美しくないとなってしまう。ただ、“モノ”視点では、そうなってしまう。

 

司馬遼太郎と城を歩く (光文社文庫)

司馬遼太郎と城を歩く (光文社文庫)

機能に重きを置くことが心のある事なのか

 長い歴史もあり、伝統と文化の国だったとして、機能ばかり追求し続けることは、国柄と対極にあるようにも感じる。

 “モノ”視点で、ヒトモノコトを見ることが文化的なことなのかとも思うし、機能や効率に重きを置くことはそうとも思えない。

 心があるようにも思えないし、“モノ”視点から心や文化が育まれていくとは思えない。心や文化がないところが美しいと言えるのか。

 機能を追求することが果たして美しい事なのか、疑問に感じている。

 

司馬遼太郎と寺社を歩く (光文社文庫)

司馬遼太郎と寺社を歩く (光文社文庫)

優秀な“ヒトモノコト”は機能として美しいとなってしまうが...

優秀ならとにかく美しいと、"機能美”ではなってしまう

 “機能美”というものがあるのだとして、優秀な“ヒトモノコト”は、機能として美しいとなる。

 つまり「優秀=美しい」となってしまう。

 ただ、そうすると、優秀でないと美しくないとなるし、優秀なら、とにかく美しいと、“モノ”視点ではなってしまう。

 どうなのか。心がなくともモノとして、機能として優秀なら美しいと、機能美で見るとなってしまうが、心はない。

 心がないのに、美しいとなることが意味が分からない、、、

 ....とすこしとぼけてみた。

 

人体はこうしてつくられる――ひとつの細胞から始まったわたしたち

人体はこうしてつくられる――ひとつの細胞から始まったわたしたち

心をもった人ならどこにでも美しさを感じることが出来る

 “機能美”

 モノに美しさや心をみる事が出来るのは、良い心をもった人なだけだ。

 良い心をもった人なら、様々なところに心をみて行き、美しさを感じることが出来る。

 機能せず、古くなったものにも、美しさを見ていく事ができるはずだ。

 機能美というものも、機能に美しさを見ることが出来ない人間には、

 "何のことやら、はて”

 となってしまうし、古く伝統的なものごとに対しても、モノの新しさばかり追い求めるミーハー人間には、"はて、何のことやら”となる。

 

幕末史 (新潮文庫)

幕末史 (新潮文庫)

文化的でないものは美しさを見る事は難しい

 心がないものや、ものごとの素養がないものには、美しさを見ることは難しいとなってしまう。

 心もなく、文化的でない人には、美しさを見ることは難しい。なので、目につくところの綺麗さ、格好良さばかりを追い求めてしまう。

 ミーハー人間。

 “イメージ戦略”の格好の相手とも言えそうだけど。

 

地図で読む昭和の日本: 定点観測でたどる街の風景

地図で読む昭和の日本: 定点観測でたどる街の風景