takeさんのnikki ~"K2”さん日記~

ダイバーシティを追求 ネットと紙媒体に舵を切る 14が好き 東京は嫌いだが江戸は好き(*‘ω‘ *)

去年の夏ごろから聴覚過敏が気になっている |“失礼な子だな”内心そう思っていたが....

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ハイリー・センシティブ・パーソン(HSP)

・いろんなことに気付きやすい。
・些細な仕草、言動から相手の意図を読み取ることができる。
・いろいろなものに深く感動できる。
・周りからは気にしすぎ、考えすぎと言われる。
・騒音が苦手。
・団体行動が苦手。

ハイリー・センシティブ・パーソン(英: Highly sensitive person, HSP)とは、生得的な特性として、高度な感覚処理感受性(あるいは、カール・ユングの造語で言えば生得的感受性)を持つ人のこと。共通して見られる特徴として、大きな音、眩しい光・蛍光灯、強い匂いのような刺激に対して敏感であることが挙げられる。

HSPはしばしば、豊かで複雑な内的生活を送っているという自覚をもっている。物事に対して容易に驚き、短い時間にたくさんのことを成し遂げるよう要求されると混乱するという性質を持つ。エレイン・N・アーロンや他の研究者によると、HSPは人口の約五分の一を占めるという(男女によって偏りは見られない)。HSPは感覚データを通常よりはるかに深く、かつ徹底的に処理しているが、それは神経システムにおける生物学的な差異によるものだという。この特異な性質が発見されたことは、ある種の人々を見る目が大きく変わるという決定的な帰結をもたらす。つまり、生得的なシャイさ、社交不安障害、社会的抑制、社会恐怖症、生得的恐怖症、あるいは内向性などとHSPはしばしば混同されてきたが、それらとは一線を画する性質だということである。この性質は、HSP測定法という内的・外的に妥当性があることが確認されている方法よって測られる。HSPは主に人間を記述するために用いられるが、同様の性質は100種以上の生物にも見られるという。

ハイリー・センシティブ・パーソン - Wikipedia

聴覚過敏が昨年の夏あたりから気になっている

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※聴覚過敏保護用シンボルマーク  

外出時は、雑音を避けるなどの工夫

 聴覚過敏が気になっている。ある時期から、耳の聞こえの悪さに悩まされていた。正確に、思いだすことは難しいが、東京に出てきた前後となるのか。

 “聞こえの悪さ”なのか、雑音ばかり拾い、話し声が聞こえづらい、内容が分かりづらいという事が、4,5年くらい前まであった。

 以降、少しづつ回復してゆき、聞こえの悪さは無くなった。

 たしかに、無くなったのだが、去年の夏ごろから、音に敏感になってしまった。スマホ、PCの通知音や、イレギュラーでの大きな音。

 テレビの大きな音も苦手になってしまった。なので、部屋では静かに過ごし、外に出かけるときには、イヤホンをして音楽を聴くことにしている。

 聴覚過敏という事なのだろう。

 

解説①

朝方のテレビが苦手というのも、様々な理由があるのだろうと考えています。1つは聴覚過敏なのかなと見てます。また、他にも理由があるようです。良くない事件・事故というものが好きではありません。また、ワイドショー的なネタも好んでいないようです。これらに関しても、その人も同様の事を言ってました。つまりテレビ嫌いだったようです。

実家が苦手な理由としてもテレビが挙げられます。両親は自分と比較して、"少し耳が遠いのかな”と思っていました。加齢とともに益々、遠くなっており、難しい。食卓を囲みテレビを見ながらというのも難しいのかなと考えています。

解説②

幼少の頃から、耳鳴りに悩まされていた。小学校3年生くらいからだった。当時は、"悩んでいる”というのとは違った。"耳鳴り”というものを理解していないから。こういうものなのだろうと思い過ごしていた。天然と言えば天然。ある時期におかしいと気づく。周りの友人にそういうやつが居なかったからだ。

聴覚過敏と耳鳴りに関係性があるのか否か。気になるところ。

また、音の違いによって、何が原因になっているのかが分かるようです。父も耳鳴りに悩まされていました。

「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる  「繊細さん」の本

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鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

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聴覚過敏(ちょうかくかびん、英: hyperacusis)は、大抵の人が十分我慢できる音を、苦痛を伴う異常な音として経験することである。耳の病理と関係する生理学的な要素だけでなく、心理学的な要素も含まれている。

聴覚過敏症、音過敏(おとかびん)ともよばれる。普通の環境音に対する耐性が失われることもある。重度の聴覚過敏では、他の人々にとって何の問題もない音声が、患者にとってのみ不愉快で苦痛を伴う音として聴こえる。苦痛軽減のための専用のイヤーマフや聴覚プロテクターも販売されている。それらの保護具には聴覚過敏保護用シンボルマークが付されていることもある。

重度の聴覚過敏の罹患率は、2〜3%以下である。

聴覚過敏 - Wikipedia

“失礼な子だな”内心そう思っていたが....

“聴覚過敏”というものの理解がなかった

 そういえば、そのひとも移動中にイヤホンで音楽を聴いていた。それこそ、ふたりでいる時も聴いていたときもあったか。

 “聴覚過敏”というものの理解がなかった。僕にその理解が無かったとなる。

 “失礼な子だな”と、言葉として発したことは無かったが、内心そう思っていた。人とあうとき、話しているときにイヤホンをしているとは、と。

 僕自身、耳の聞こえの悪さに悩まされていた時期でもあり、その憤りから、なおさら、そういう思いに駆られた。

“失礼な子だな”

文言や情報ではなく、その心を知ることが出来たのか....

 理解が無かったといえばそれまでだが、たとえば、何かを学んだとして、“聴覚過敏”の苦しみの少しでも知ることが出来たのか。

 “文言として” “情報として”の理解ができたとなるのかも知れないが、本当の苦しみそのもの、そのひとの苦しみそのものを知ることにはならない。

 文言や情報としてではなく、その心を知ることが出来たのか....

 

情報での理解が、“理解”になるはずがない

 “理解する”こととは、そのひとの心、痛みや苦しみを知ることにはならないのだろうと考えるようになった。

 そういうものではなく、理解することが難しいが、できる限り、その心に歩み寄る以外ないのだろうと考えるようになった。

 実際に、自身がその苦しみに悩まされる以外、そのひとの苦しみを知ることはできない。分かりっこないし、理解が出来るはずもない。文言や情報からの理解で、理解になるはずがない。

 過去、無自覚で発した言葉の数々を思いだしている。