takeさんのnikki ~"K2”さん日記~

ダイバーシティを追求 ネットと紙媒体に舵を切る 14が好き 東京は嫌いだが江戸は好き(*‘ω‘ *)

スポーツとはモノとモノが競う代理戦争みたいなもの |争いごとに発展しやすいから文化で繋がっている必要があるのだ

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スポーツとはモノとモノが競う代理戦争みたいなもの

上京してからの24年、"合わなかった”ということに尽きる

 "合わなかった”

 もちろん、いうほど不器用ではないから、どうにか出来てしまうタイプと言えそうだ。ただ、それが自分に合ったものだったのか疑わしい。

 とはいえ、合わないなりに、その都度吸収していったものごとが、何の役にも立っていないとは考えていないし、無駄になる事もない。

 24年が無意味だったなんてことは無い。

たしかに、口走ることはある "無意味だった”

 それも、売り言葉に買い言葉で発してしまったものかも知れないし、余程、耐え切れなくなり、愚痴るように言ってしまっただけだ。情けない話でもあるが、仕方がないだろう。救いが一つもないのだから。

 "24年が無意味ではない”と、そう思えるのも、人の心や文化に対してだ。合わなかったとしても、それは、結果に過ぎない。結果が伴わなかっただけだ。

 たまたま。

 相手だけの問題でもない。自分にも不甲斐ないところは確かにあったのだ。

一つのものごとを理解する為に、他のものごとを知る必要がある

多様性を考える上でもそうなる。様々な文化を知る

 野球の理解の話をしたことがあったかと思う。

 理解するうえで、野球のみをとことん吸収していくことが、理解になるのかといった類の話。

 素人がプロ経験者の理解には一生及ぶはずがない。もちろん、そういった話をしたいわけではなく、ものごと知る、という話。

 野球のみを知ることを続けるよりも、他のスポーツを知ることをしてみる。たとえば、サッカーでもなんでも良いが、他のスポーツを知ることにより、他の視点から、元々好んでいた野球を見ることが出来るはず。

2020年東京オリンピックを考える上でも必要だ

 野球の良し悪し。サッカーの良し悪し。

 一面からではなく、多面的に野球を見ることでもあるから、より理解することが出来るはず。副産物として、サッカーの理解がすこし深まることにも繋がる。

 こだわりが強く、一つのことを好むのも良いが、その事で理解を阻むことの可能性がある。

 遠回りをしたが、24年間合わない環境ではあったというのも本当の事。

 "合わない”

 スポーツが合わなかったということ。ただ、それも無駄とは思ってはいない。が、やはり合わなかった。

 素直な思い。

スタンフォード式 疲れない体

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追記①

ここに来て自分の素直な思いが、表現できるようになってきた。44才になったいま、ようやくと言ったところか。自分から出た素直な表現を、"我”と言われると納得は出来ない。悲しい気持ちにもなる。なら、幼少の頃から素直に言えばよかったなと後悔しかなくなる。聞き分けが良くても何ひとつ良いことが無かったとなってしまう。

悲しい気持ちしか残ら無い。

本音を言い続ければよかった。そいつの為にもなったのだろう。どうせ、上手くいかなかったのなら、そのほうが納得いっていたのだろうな、と考えてしまいます。

「本音」をようやく言えるようになった。同時に気づきもある 

 24年間は無意味という事は無い。その間に、人の心を知ることが出来たはずだし、影響を受けることで、自分自身にも変化があった。そのこと自体が無駄で無意味という事は無い。

 やはり、人の心だ。文化だ。そういった人の心に触れることが出来たからこそ、そう思えているだけだ。決して、東京というスペースから触れられたわけではない。場所というものでは無い。人の心から触れることが出来た。

 モノからこういった思いに至ることは難しい。

 記憶という心から触れることが出来たから、思い返すことで、そこに無かったとしても、心にそういった想いがあるからこそ、無意味になることは無いのだ。

 人の心を知ったからだ。

 テレビが合わなかった。元々はテレビが大好きだった。横浜にいた頃までは好きだった。が、上京してから変わった。そうではなくなった。嫌いになった。テレビが嫌いになってしまった。ついていない。運が悪かったのだ。

 テレビだけが悪いわけじゃない。たまたま、そりが合わなかったのだ。結果、通信と紙媒体の二つに絞られた。

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争いごとに発展しやすいから文化で繋がっている必要がある

 スポーツとは、モノとモノが競う、代理戦争みたいなもの。

 サッカーで言うなら、エルサルバドル、ホンジュラス間で行われた、いわゆる"サッカー戦争”。

 また、野球の"塁”という言葉。

 1塁、2塁の"塁”。つまり、"ベース” "基地” トレンチコートの"トレンチ”。塹壕。土塁の塁。

 野球もまた戦争を連想させる言葉が多く使われている。代理戦争か。モノが競うと戦争に発展しやすいのだ。ガス抜きとしてのスポーツ。代理戦争。

 モノとモノが競うと争いごとに発展しやすいからこそ、心でつながっている必要がある。文化で繋がっている必要があるのだ。 

塹壕(ざんごう、英: trench)は、戦争で歩兵が砲撃や銃撃から身を守るために使う穴または溝である。野戦においては南北戦争から本格的に使用され始め、現代でも使用されている。日本陸軍では散兵壕(さんぺいごう)と呼んだ。個人用の小さなものはタコツボ、蛸壺壕(英語:フォックスホール)とも呼ばれる。

戦闘陣地の一種と位置付けられる。簡素な手掘りの穴から、柵や有刺鉄線、土塁、土嚢、木材、コンクリートなどで補強された野戦築城まである。

塹壕 - Wikipedia

サッカー戦争(サッカーせんそう、スペイン語: Guerra del Fútbol)は、1969年7月14日から7月19日にかけてエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。両国間の国境線問題、ホンジュラス領内に在住するエルサルバドル移民問題、貿易摩擦などといった様々な問題が引き金となり戦争に発展した。この戦争の根本的な原因は両国の経済成長モデルと農地問題に起因した国内矛盾にあり、寡頭支配層が国際紛争を引き起こすことで政情不安の高まりを一時的に回避しようとする狙いがあったと考えられている。一般的には同年6月に行われた1970 FIFAワールドカップ・予選における両国の対戦と関連付けた「サッカー戦争」の名称で知られているが、この戦争の性質を端的に捉えたものではない。100時間戦争、エルサルバドル・ホンジュラス戦争、1969年戦争とも呼ばれる。

サッカー戦争 - Wikipedia

やはり、e-sportsが気になっている

"ボランティア”が文字どおりなら、各々ができる範囲内で実践

 個人的にe-sportsが気になる。スポーツ離れが深刻化しているようだ。理由は様々あるようだが、自分としても、あまり良い印象は無い。現状はない。

 ただ、無いのは無いのだが、少し、考え方を変えてみたらどうか。スポーツ嫌いの子どもなりに、ゲームやアニメ、漫画といったところから、スポーツに興味を持たせることが出来たらどうなのか。

 そういったところからでも興味を持つ事で、競技場へ行きたいな、スポーツ観戦したいな、テレビなどで見ても良いかな、と思う心が芽生えると良い。また、そう言った働きかけは、直に五輪に関わらなくても出来るはず。

 各々が意識的に行えば良いだけのこと。

形はどうであれ、知ってもらうことが必要だ

 "ボランティア”というものが文字どおりなら、各々が日々できる範囲内で実践していれば良いだけ。

 どういった形であれ、知ってもらう事から始めないとならないはず。それは、ゲームであれ漫画であれ良いはず。なんでも良いはずだ。そこに貴賤があるはずがない。あとは、各々がその都度もち合わせたものが、どういったモノかで変化がみられるだけだ。

 いずれにしても、知ってもらうことから始める必要がある。

スポーツとは、一定のルールに則って勝敗を競ったり、楽しみを求めたりする身体運動のことである。ただし身体運動が主ではない場合でも、マインドスポーツやモータースポーツなどのように、少しでも身体運動を伴った競技性のある活動をある種の"スポーツ"として認めるように主張されることもある。特に近年では複数のプレイヤーで対戦されるコンピューターゲームをeスポーツ(エレクトロニックスポーツ)と呼び始めるようになった。これらと対比して、身体運動が主であるスポーツをフィジカルスポーツと総称することもある。
「sports スポーツ」の語源はラテン語の「deportareデポルターレ」にさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいはportare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という語感の語である。これが古フランス語の「desporter」「(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ」となり、英語の「sport」になったと考えられている。

スポーツ - Wikipedia

日本において、ボランティアとは一般的に、自発的に他人・社会に奉仕する人または活動を指す。ボランティア活動の基本理念は、公共性、自発性、無償性、先駆性である。まれに暗黙の了解や周りの雰囲気により強制させられる。

奉仕活動については「奉仕」及び「チャリティー」の項目を参照。

ボランティア - Wikipedia

様々な文化を知ることを続ける必要があるのだ

 様々なものごとを知る。それは、様々な人の心を重んじること。尊重すること。様々な文化を知ることで、ようやく、寛容であれるのかなと考えています。

 多様な人の心を出来る範囲内で知ることを続けていく。たとえば、それが、"0才から100才まで”となるなら、そういう事なのだろう。

 オリンピック・パラリンピックというものも、そういうものでは無いのか。様々国から、様々なタイプの人が来日する。競技によっても違うタイプの選手がいる。体格も人種もそう。また、パラリンピックも多様。様々な人がいる。

 これらを文字どおりでなく、日々、実践していかないと五輪の時だけ"平和の祭典”と述べたところで、"嘘をつくな”と言われても仕方ない。

 マイノリティの心ひとつ思うことないものが言っても、"嘘にしか聞こえない”、そういう思いでしかない。